古事記 序 (二)

  


古事記 (国宝 真福寺本) 上巻 序 二

 
爪天劔獲於高倉生尾遮徑大烏導於吉野別儛攘賊聞
歌伏犱即覺夢而敬神祇所以稱賢后望烟而撫黎元於
今傳聖帝定境開邦制于近淡海正姓撰氏勒于遠飛鳥
雖歩驟各異文質不同莫不稽古以繩風猷於既頽照
今以補典教於欲絶曁飛鳥清原大宮御大八洲
天皇御世濳龍體元洊雷應期聞夢歌而相纂業投夜
水而知承基然天時未臻蝉蛻於南山人事共給虎歩於東國
皇輿忽駕浚渡山川六師雷震三軍電逝杖矛擧威猛

士烟起絳旗耀兵凶徒瓦解未移浹辰氣自清乃放牛
息馬愷悌歸於華夏卷旌戢戈儛詠停於都邑歳次
大梁月踵侠鍾清原大宮昇即天位道軼軒后徳跨周王
握乾符而摠六合得天統而包八荒乘二氣之正齊五行之
序設神理以奬俗敷英風以弘國重加智海浩汗潭探上
古心鏡煒煌明覩先代於是天皇詔之朕聞諸家之所賷
帝紀及本辭既違正實多加虚僞當今之時不改其失未
經幾年其旨欲滅斯乃邦家經緯王化之鴻基焉故
川を出でて、天劒を高倉に獲、生尾径を遮りて、大烏吉野に導きき。儛を列ねて賊を攘ひ、
歌を聞きて仇を伏はしめき。即ち、夢に覚りて神祇を敬ひたまひき。所以に賢后を称す。烟を望みて黎元を撫でたまひき。
今に聖帝を伝ふ。境を定め邦を開きて、近淡海に制め、姓を正し氏を撰びて、遠飛鳥に勒めたまひき。
歩驟格異に、文質同じからずと雖も、古を稽へて風猷を既に頽れたるに縄し、
今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふこと莫し。飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし
天皇の御世に曁りて、潜竜元を体し、洊雷期に応じき。夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の
水に投りて基を承けむことを知りたまひき。然れども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東国に虎歩したまひき。
皇輿、忽ち賀して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛

士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰を移さずして、気自ら清まりき。乃ち、牛を放ち
馬を息へ、愷悌して華夏に帰り、旌を巻き戈を戢め、儛詠して都邑に停まりたまひき。歳
大梁に次り、月夾鐘に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。
乾符を握りて六合を摠べ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二気の正しきに乗り、五行の
序を斉へ、神理を設けて俗を奨め、英風を敷きて国を弘めたまひき。重加、智海は浩汗として、潭く上古を探り、
心鏡は煒煌として、明らかに先代を覩たまひき。是に天皇詔りたまひけらく、「朕聞く、諸家の賷る
帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ
幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故
コメント欄
 古事記編纂の発端が述べられています。天武天皇の言葉として、「諸家が持っている帝紀及び本辞は、すでに事実と異なり、多くの虚偽が含まれていると聞いた。」と言っています。帝紀と本辞は「歴代の天皇あるいは皇室の系譜類」と言われる。
 Wikiによれば「六八一年(天武天皇十年)より天智天皇二子の川島皇子と忍壁皇子が勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。」とあるが、これはおかしな話で、天武天皇がその当時「諸家が持っている帝紀および本辞」と言っているのだから、このWikiの解説は当たらない。
 先ず、疑問なのは、何故天皇家に帝紀と本辞がなかったのかと言うこと。天皇家にあれば、先のような発言はないはず。天武朝はクーデター政権であり、壬申の乱で天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇)を近江大津宮で滅ぼした時、それらが継承されなかったと言うのが素直な見方であろう。さて、「諸家が持っている帝紀及び本辞」と言うからには、書物として諸家にコピーされていたと考えるのが当然と思う。後に出てくる「稗田阿礼が『誦習』」と言うことから、誦習を暗唱と捉え、古代には本がなく、もっぱら口伝だったような説が一般化されているが、漢字伝来は古事記の応神記に、「名和邇吉師、即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進」とあり、つまり4世紀中ごろ(三五〇年)には漢字が伝わったと考えられる。そこから、この天武天皇まで約3百年、漢字がまったく普及しないと言うのは、あまりに日本人を馬鹿にした論議だろう。もちろん、統一した漢字による日本語の表記法などが未確立のためなかなか普及しなかっただろう事は、十分考えられるが。
 それでは、この「稗田阿礼の誦習」とは。
 
国立国会図書館デジタルコレクション
 古事記 国宝真福寺本・上巻 コマ番号 4

古事記 (国宝 真福寺本) 上巻 序 二

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